ザ――――――――――――………。
廃寺、雨の一夜
パシャパシャ……ッ。
道中、突然雨に降られてしまった。
昼間は、雲ひとつない青空が広がっていたので、雨具も持っていなかった。
すぐにやむだろうと踏んで、暫くはそのまま歩きつづけていたが、雨は止むどころか
激しくなるばかりで、ついには滝のような土砂降りとなり、肌を打ちつけはじめた。
髪と着物は雨を含んでずしりと重くなり、踵や爪先は濁った泥水で汚れてしまっていた。
町まではまだかなりの距離がある。
どこか雨宿りできる場所をと、視界もろくに開けない雨の中を見渡した。
すると、白い雨の滝の中で、遠く建物の影が見えた。
ほっと息をついて、私はその影に向けて走った。
「あー、もう…っ、寒…っ!」
雨の中に見えた建物は、古びた小さな寺だった。
雨を防いでくれる軒先に腰をかけ、髪や着物に染み込んだ雨を絞り、一人ごちる。
雨はいまだ衰える事を知らず、降り続けていた。
暫くの間、ぼうっと、空から落ちてきた雨が地面に打ち付けられるのを見ていたが、
ぶるっ、と体が震えた事に気付き、寒さを認識した。
空を何重にもなって覆う厚い雲のせいで、今が何刻頃なのかもわからない。
ひょっとすると、とうに日は西に沈んでしまっているのかもしれない。
あたりを、群青色の夜が包み始めていることを、ふいに感じはじめた。
「中…、入ろう」
だるそうに腰をあげて、ガタがきた戸に手をかけて、力を込めて引き開けた。
何とか自分の体が通る程度の隙間を開けて、すいと中に入る。
外よりは幾分か暖かい。
だが長い間人を迎えていない為だろう、入った途端に足元で埃が舞った。
う、と眉をひそめ、袖で口元を覆う。
そのとき、埃の匂いと同時に、それとは違う異臭が鼻をついた。
何だろう?
目を凝らして、その暗闇の中を眺めてみる。
次の瞬間、ぎょっとして後退った。
一遍に訪れた恐怖と驚きと警戒心に私は身を震わせた。
暗闇の中で、鋭く輝いた光り。
眼だ。
獣の、しかもとても凶暴な。
近付けば、すぐさま自らの牙と爪で、こちらの肉を引き裂き、食いちぎってしまうような。
わかった。そしてこの異臭の正体はきっと、血なのだ。
おそらくは、この獣の…。
ぞ、と背筋が粟立つような感覚に襲われた。
そのとき、
「おい」
囁くような、だがはっきりとした脅しのこもった低い声。
獣が口を開いた。
衣擦れの音がして、暗い影はゆっくりと身を動かす。
「怯えんなよ。獲って食やしねえよ、今のまんまじゃ何もできねえんだ…」
獣が、嘲笑的にに唇の端を吊り上げたのがわかった。
ふいに手をついたかと思うと、獣はガタンと音を立てて床に転がってしまった。
それと同時に、「うっ」と呻き声をあげた。
「!大丈夫?」
思わず声をかけてしまった。
怪我をしているのだろう、苦しそうに喘ぎながら、
「う…、はぁ…。そこ、閉めろ…。はぁ…、あと、水と、布持ってねえか…」
「水と、布?」
聞き返す。
獣はそうだと言って、手で弱々しく、戸を閉めるように言った。
それに従って、私はガタガタと鳴らしながら戸を閉めた。
雨音はそれによって、少し遠いものとなった。
段々と、目が暗さに慣れてきた。
暗闇の中の影でしかなかった獣の姿も明らかになりはじめる。
目つきが悪い。忍び装束に身を包んでいる。
元々乱暴に結われた髪は乱れ、腕や顔に鋭利な刃物などで切られた痕がある。
小袖は、血が乾いてどす黒く変色していた。
目に見えてはここまでだが、まだいくつも傷はあるだろう。
「大丈夫…?」
「水…、貸せ…」
起き上がろうと右腕をつくと、男は顔を歪めた。
黙ってみておれず、私はその男の手をとって、なるべく楽な体勢をとらせてやった。
「おい」
「喋らないで。上脱いで傷見せて」
「馬鹿野郎、関わりあいになるな」
「何言ってるの?馬鹿言ってないでほら早く!」
半ば無理矢理、男の腕を取った。
しかし、男はすぐに私の腕を振り払った。
「俺に関わるんじゃねえ!」
とても強い怒鳴り声に、私は身を竦ませた。
男は、さっきの衝撃で腕に痛みが走ったのか、顔を歪ませながら、私を見据えている。
「水と、手拭があれば置いていけ…。この堂を出て、真っ直ぐ行ったら茶屋がある、
それ置いたら出て行け、俺に関わりあいになるんじゃねえ…」
背筋が凍るほどに恐ろしい眼だった。
射竦められたような気分だった。
下手に身動きすれば、飛び掛って、食い殺されてしまいそうで、息をする事もままならない。
男は、荒い息でもう一度言った。
「早く、逃げろ」
同時に崩れ落ちた。
私は驚いて、飛びのいてしまった。
膝のすぐ近くに男の体が横たわり、徐々に、どす黒い水溜りが広がり始めた。
「!!」
急いで抱き起こすと、手にぬるりと生温い血の感触を覚えた。
だが、そんなことに構っている暇はない。
襟を広げると、わき腹に、鋭利な刃物で切られた傷があった。
主な出血はそこからである。
部屋の隅に転がっていた桶を手に取り、激しい雨の中に置いた。
水がたまるまでの間、手拭で、血を拭く。
それでもまだ止まる事はない。
この獣は気を失っている様で、いくら体に触れても噛み付いたりはしてこない。
桶いっぱいにたまっていた水で傷口を洗い流した。
血が洗い流され、傷口が露になった。
「…ひどい」
深い。
酷い傷だろうとは思ってはいたけれど、傷はそれ以上に深かった。
腹の肉が一部そがれ、生々しい部分が目に見えた。
思わず吐き気を覚えたが、早く手当てをしないと、この人は死んでしまうかもしれない。
そんな思いが、なんとか私の手を動かせた。
傷口を洗い、手拭を添えた。
「う…」
男がうめく。
「痛い?」
聞いても、男から返事はなかった。
ただ、苦しそうに喘ぐ声を上げるだけで、気を失ったままであった。
腹の傷以外にも、たくさんの血の跡が残っている。
死なせやしない。
ただその思いで、私はこの獣の手当てを続けた。
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